

当山は、中国岡山城主・井伊侯の菩提寺だったという。建武三年(1336)北朝軍に敗れた井伊家の残党は日本海へ逃れて北上し、この地にその菩提寺を移したという。その後、岡山の伊井家は復興せず、寺も衰微したものと思われる。
藤原秀郷の後裔内藤家は元亀天正の時代、上杉家に仕えていたが、元和偃武の頃、越後を下りこの地で廻船業を営んだ。以来、形蔵院は内藤家によって復興され、その菩提寺となった。
その後、幕府の知行米をあずかった内藤家は次第に栄えて、江戸中期には越後一の豪族と称され、その財力は全国に知られるようになった。従来は智山派薬師寺の一﨟末寺であったが、内藤家六代久乗は大施主となり、智山派を離脱し、豊山派談林格寺となった。間口十二間、奥行十間の総欅の大伽藍を建立し、寺宝も数知れずあったという。
文久二年(1862)一切が灰燼に帰した。 内藤十二代久寛は日本石油株式会社を設立したが、大正三年、先祖の菩提と殉難者の菩提のため伽藍の建立を志され、鉄筋コンクリート三間四面の山門と、木筋漆喰九間四面の本堂及び梵鐘はじめ荘厳具一切を寄進。
先々住良暢は、権田雷斧(豊山派第二世管長、長谷寺第五十八世化主)の推輓によって、長岡市小曽根延命寺より転住した。

形蔵院について
嶽照山 常空寺 形蔵院
がくしょうざん じょうくうじ ぎょうぞういん
御本尊
延命地蔵菩薩
霊場
越後新四国八十八ヵ所
第二十二番札所

ご本尊(御前立)

不動明王
現在の本堂は、増改築を重ね、当時の西洋様式も取り入れた斬新な本堂を建て、集会場としても一般に大いに活用された。
内藤久寛
石地にある久寛荘はかつて日本石油(株)(現JX日鉱日石エネルギー(株))初代社長内藤久寛の邸宅でした。内藤家の祖先は上杉氏に仕え、主家の会津移封時に石地に住んだ郷士と伝えられています。代々石地の庄屋となり、時には近郷の大庄屋として高田や長岡に米藏を持ち、大名の知行米を預かるなど地域の信望と勢力を有していました。内藤久寛氏が建てた建造物として現在残っているのは内藤家の菩提寺である形蔵院の伽藍そして竜宮城のような鐘楼門である。





